平塚柔道物語その40
平塚柔道協会 会長 奥山晴治
2009年10月1日

40.平塚柔道物語・その40

3つの目標を達成し世界選手権へ出場−中西英敏東海大柔道部前監督

 中西英敏さんは東海大学入学時に3つの目標を立て、1つの目標(団体戦代表選手になること)は、 3年生の時に達成。大学院に入ってからも、あと2つの目標(全日本選抜体重別大会で優勝すること。 全日本選手権大会無差別級に出場すること)に向かって挑戦を続けていた。

 「目標とは実現すること。目標とは挑戦すること。目標なくして進歩なし」とは中西さんの持論である。 そして、「目標を設定したら、その目標を達成するための具体的強化計画が必要になる。世界を目指そうとすれば、 そのような計画を立てなければならない。さらに、逆算してそうなるためには、今自分は何をやらねばならないのか、 その課題を明確にすることである。そして、ここまでやれば誰にも負けないぞという稽古。 カラ回りをしない練習。気持と技が完全に一致するような心掛け。限界をどこに置くかがポイントである」と、主張する。

 大学院時代の中西さんは、身長168cm、71kg。決して大きな体ではないが、目標を達成する闘志と情熱の塊であった。 それを見た仲間達は、「火の玉小僧」とか、「鉄人」というニックネームをつけたという。

 昭和57(82)年、大学院2年生の時、中西さんの柔道人生は、目標達成の忘れることのできない年となった。

 全日本選抜体重別大会の71kg以下級で見事優勝したのである。さらに、無差別の全日本選手権大会にも出場。 重量級の多い選手の中で、軽量級の中西選手への期待は大きな話題となった。

 長年の2つの目標を同時に達成したという充実感は、彼にとって大きな自信とつながっていったのである。

 さらに、翌年の昭和58年(大学院3年)は生涯最高の年となった。全日本選抜体重別大会で連続優勝し、 何と、第13回世界選手権大会への出場切符を得たのである。 3年前のソ連大会で「ひょっとすると自分も世界を狙えるのではないか」という夢を持ったことが現実とかったのである。 会場はソ連のモスクワであった。

 現地に行ってみると、世界大会のポスターがあちこちに貼られていたが、それを見て驚いた。 何と、3年前のソ連国際大会の決勝で帯び取り返しで自分が負けたシーンが、そのまま大会のポスターに描かれていたのである。 中西さんはムラムラと闘志が湧いてきた。「この屈辱を晴らさずに置くものか」と、火の玉小僧の闘志に油を注いだことになる。 その相手とは3回戦で当ることになっていた。

 振り返ってみると、3年前のくやしさによって多くのことを学ぶことができた。同じ轍を踏まないために、 あらゆることを想定し、対策を考えてきた。「今こそその柔道を見せる時が来た」。そう思うと、 彼の闘争心はさらに高まっていったのである。

−以下次号−



写真は、世界選手権大会でロシア選手と戦う中西選手


(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)

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